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【本】國分功一郎『暇と退屈の倫理学』まとめ(3)【完】

2023年9月1日(金)

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫, 2021)のまとめ。7章〜結論まで。

https://www.amazon.co.jp/dp/4101035415?tag=chiharunosite-22

第7章 暇と退屈の倫理学

ハイデッガー:3種類の退屈の形式

・第1形式:人は日常の仕事の奴隷になっている。なぜなら「なんとなく退屈」な状態から逃れたいから。

・第2形式:退屈から逃れるために日常的に気晴らしを行っている。しかし、その気晴らしの中に退屈がぼんやりと現れ、絡み合う。

・第3形式:深い退屈が決断によって反転し、自由につながる。しかし、そうすると第1形式に戻る。その仕事を決断によって選び取ったならば、その仕事の奴隷になることで安寧を得る。

コジューヴ:「歴史の終わり」これ以上人が進歩しなくてもいい状態。1940-50年代にアメリカ的生活様式を見て確信した。そこにいるのは「動物」だ。しかし、1959年に日本を訪問して、スノビズムを見た。これは「人間」。

いや、バケツのポップコーンを食べながら映画を見るのも、お茶をたてるのも第2形式の暇つぶしではないか。

ジュパンチッチ:大義のために死ねる過激派や狂信者を羨ましく思っている。彼らは「なんとなく退屈」から自由であるかのように見えるから。

ドゥルーズ:人間はものを考えないですむ生活を目指して生きている。考えるきっかけになるのはなんらかのショック「不法侵入」である。

習慣を作らねば生きていけないが、その中では必ず退屈する。人は本生的に退屈と気晴らしが絡み合った生を生きることを強いられている。

結論

(1) こうしなければと思いわずらう必要はない。しかし「あなたはそのままでいい」ということではなく、その実践の只中にいる。スピノザ:人は何かがわかった時、自分にとってわかるとはどういうことかを理解する。例:公式を当てはめればいいと思っていたら、その人は公式の奴隷である。わかったという感覚をいつまでたっても獲得できない。

(2) 贅沢を取り戻すこと、つまり楽しむこと。しかし楽しむには準備と訓練が不可欠である。ラッセル:教育はもともと楽しむ能力を訓練することだった。人類は気晴らしという楽しみを創造する知恵を持っている。しかし、消費社会はこれを悪用して、気晴らしをすればするほど退屈するという構造を作り出した。

(3) 動物になること=楽しむこと。それについて考えること。結論(2)に戻る。

世界には思考を強いるできごとがあふれている。楽しむことを学び、思考の強制を体験することで人はそれを受け取ることができるようになる。

暇の王国こそが自由の王国である。それは贅沢の中から始まる。

★私のまとめ

できあいの気晴らしではなく、自分の気晴らしを創造せよ。しかしそのためには気晴らしを発明し、それを楽しむための能力を訓練する必要があるよ。それはちょっと大変だ。だけど、大変だからこそ気晴らしになる。それは退屈とは対極の位置にあるはず。