KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

デファクトスタンダードとしての英語

 サンフランシスコからSandyとEdが来た。Pasporta Servoで3組目のお客様である。一泊だけの滞在だったが、2人とエスペラントでの会話を十分楽しんだ。年齢が近いこともあって、愉快な時間を過ごした。

 先日の金沢でのエスペラント大会という機会もあり、エスペラントを含めた世界の言語情勢について考えてみたりする。それは、事実上の標準(デファクトスタンダード)になりつつある英語とその他の言語の勢力関係、そしてひとつの選択肢としての国際語エスペラントである。

 世界のレベルでは、国際連合やEUを初めとする国際機関において、常に言語にかかる金が重くのしかかっている。多くの国際機関では、その予算の半分以上が、会議通訳やドキュメントの翻訳のために支出されているという事実がある。英語は確かに収穫逓増の原理にしたがって利用人口を増やしている。収穫逓増の原理というのは、より多くのシェアを確保したものがますます多くのシェアを占め、利益を得るというメカニズムである。たとえば、VHSとベータ、あるいはプレイステーションセガサターンのように品質に決定的な差がない場合でも、初期のシェアのごくわずかな差が勝敗を決定づける。最近では、ウィンドウズのシェア寡占もこの例にはいるだろう。この原理にしたがえば、英語の優勢は当分の間、変わりそうもない。しかし、英語もまた1つの民族語という意味で、日本語をはじめ他の民族語と本質的な差があるわけではない。したがって、これからますます増えるであろう国際的な交渉や国際機関の設立において、その参加国の言語権を尊重する限り、英語一本で行こうということにはけっしてならない。

 いくら宮沢蔵相が英語ができるといっても、交渉に臨んで、相手の言葉である英語を使うのは自ら不利な立場を選んでいるわけで、ばかげている。東大の高野陽太郎さんが「外国語効果」という現象を明らかにしている。これは外国語で考えるとその見かけの知能が落ちるということを証明した研究である。この現象は外国に行くと思わぬポカミスをやってしまうという誰でも持つ体験からもうなづけることだ。交渉の場で、相手方の言語を使うということはそれだけで自分の交渉力を半減させているに等しい、不利なことなのだ。外交に関わる大臣は英語を使わず(たとえできてもそれを隠し)、日本語でクリアな議論ができる人であってほしい。クリアな議論ができる道具として日本語を鍛えるのは私たちの仕事である。

 研究の世界では英語の寡占はもっと進んでいる。理学、工学、医学の分野では英語で論文を書くことは当然のことと考えられている。「論文とは英語で書くものなのだ」と堂々と宣言する人もいる(利根川進さんが「サイエンス」誌でそう書いていたと記憶している)。しかし、一度でも英語で論文を書いたことがある日本人(不幸にも私も一度ある)ならば「どうして自分はこんなに幼稚なディスカッションしか書けないのだろうか?」と感じ、落胆しない人はいないだろう。外国語効果である。何もその人の頭が悪いわけではない。

 「英語=国際化」と考えてしまいがちだが、それは日本人の多くが持つ誤りである。古くはダグラス・ラミスさんの「イデオロギーとしての英会話」(晶文社)からそれは指摘され続けている。養老孟司さんは週刊文春(98.9.10)のコラムで、あるときから英語で論文を書くのをやめてしまったと言っている。そうしたら科学の世界では「干され」たが、別のところに働き口ができ、ともかく生き延びている、と。これが現実であろう。しかし、私には養老さんの行動スタイルはすがすがしいものに映る。

 ここまで書いてきたら、エスペラントについて書く時間がなくなってしまった。これは次の機会に譲ることにしよう。