KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

授業で勝負するということ

「3分の1は担任を辞めたい」の記事の続きだけどね。

——5/19の日記で取り上げた、AERA(99.5.24)の「学級担任これでいいの」という記事のことね。

自由の森学園の校長だった木幡寛さんは「授業です。子供と、授業で勝負するということです」と言っている。これが記事の結論的な位置づけなんだけど、僕は非常に共感したな。

——あなたは以前、金八先生批判をした日記(98.10.30)でもそのようなことを書いていたね。いい授業をするのが先生の仕事だろう、と。

記事の中に二つコラムがあるんだけど、「席に着かない子供たちをどうするか」ということで小学校の教師二人がそれぞれ回答している。それが見事に方向が一致しているんだ。こんな具合。

  • 園田雅春さん:子供が立ち歩く。教師が「まず座りなさい」なんていう。へたやなぁ。ぼくからすれば、なんでそんなこと言うの、って思う。/「なぁ、ちょっと見て見て」と呼びかけてもいい。「きのううまいもん食ってなぁ」なんて、いきなり意外な話をしてもいい。すると子供はこちらを向く。授業はいつでも始められるんですよ。
  • 向山洋一さん:子供が座ってからでないと、授業を始めないなんて、もうそれだけでダメ先生。私は常々、「すぐ始めなさい」と言っている。/いきなり、わざと簡単な問題を出して、答えを書かせるのです。苦手な子も、すぐ解けますね。そこで私は、その子のノートに、大きく「No.1」と書いてあげる。周囲は慌てますよ。するともう、次の時間からは、全員がノートを開いて待っているのですね。

——園田さんの方は、ARCS動機づけモデルでいうA=Attention(注意)をうまく引きつけているね。向山さんのやり方は、子供の競争心を利用しているという意味でちょっとあざとい。あざといが、うまいと思う。子供があざといと思わなければOKだ。

もう少し引用するとね、

  • 園田さん:いままでの教育の常識では、子供は「受動型」だった。でも、自分が主人公になりたい今の子供は「参加型」です。昔のやり方では、だめですよ。
  • 向山さん:子供に、「何もすることのない時間」を与えては、教師は失格。できない子も、できる子も、みんなをドキドキさせないと。

——なるほど、それで「授業で勝負」となるわけだ。

でもね、これは難しいよ。参加型の授業にしてどのようにしたらはちゃめちゃにならずに一本筋の通ったものになるかとかね。ましてや、できる子もできない子もドキドキしてもらう授業なんかは至難の業だと思う。これらのことを実現するには周到な準備と、その場で機転のきく柔軟性が必要だ。

——忙しい教師には、授業の準備にかける時間がない。さらに、教師という人種はもともと機転のきくような柔軟な人たちではない。

そうは言い切れないが、確率的にはそういう人が多いと思う。そのことを知っている向山さんは「法則化運動」として、誰もが使える「授業のコツ」を流通させようとしているんだと思う。機転のきかない人でも使えるようにね。

——法則化運動は毛嫌いする人もいるね。

僕もよく知らないんだけれどね。でも、「私はこのコツは好きだが、このコツは嫌いなので使わない」というのはわかるんだけど、「私はコツそのものが嫌いだ」というのは無意味だろう。でも、そう思っている教師ってたくさんいるような気がする。「授業というのは技術ではなく、心なのです」とでもいいそうな人々。僕は「授業は技術なのだ」ととりあえず言っておきたい。だってそうじゃないと進歩しないから。心の問題は、そうね、心理学者におまかせした方がいい。