KogoLab Research & Review

遊ぶように生きる。Vivi kiel Ludi.

センター試験「国語」の話題に心理学と日記

センター試験の2日目の監督をした。

「国語I」の第1問は島崎敏樹の「心で見る世界」からの文章が取り上げられていた。映画が仮現なのに実在のように思えるのは、それが「私」に関与してくるからだという話から始めて、アウシュヴィッツの収容所の生活では、外界から隔絶されているために、世界が存在しなくなったかのように感じるという話まで展開する。

今、本棚を探してみたら、「心で見る世界」は岩波新書(1960)だった。今でも買えるのだろうか。

島崎敏樹の本は、私が高校生の時に何度も読んだ。大学に入ったら心理学を専攻しようと決めた一因でもあった。ピンと張りつめた冷徹な文体が好きだったし、なんでもなく流れていく日常を、ネガポジ反転させて描き出していくような姿勢にあこがれていた。

心理学(というよりも哲学に近いか)の文章が国語で出ていたのにちょっと驚いた。これを受験生はどう解くのだろう。

さて、「国語II」の第1問の文章は、日記についてのものだった(富永茂樹「都市の憂鬱」より)。その文章が面白かったので、ちょっと引用する:

だが、いかに病気と呼ばれようとも、ある種の人びとにとって、日記はただ毎日つけるだけでは十分ではない。それを繰り返し読み、かつ意見を追加してゆかなければいけないのだ。再読と記述の追加とは、日記を書くという行為の何か本質的な部分につながっている。

こうした出口のない迷路のような日記は、しかし、保存という行為の本質を何にもまして純粋に守り、いかなる現実の目的にも拘束されないだけに、逆にある種の自由ないし解放を作者にもたらしもするとは言えないだろうか。日記の機能を極度に追求した日記は、自己にとって牢獄であるとともに、想像力が羽ばたき始める場所でもあるのだ。

ここでの日記は手書きの日記を指しているが、Web日記の場合は、手書きの日記以上に、過去の日記を再読し、それに意見を追加していくということが多いと思う。筆者は日記を書くことをジャムを作ることにたとえて、いつか食べることを予期して密封するのだといっている。そのたとえが面白い。

Web日記もまた、その人のその一日をある種の味付けでパックしたものだ。そしてそれがいい味を出してきた頃に、ちょっとなめて、新しい味付けをして付け加える。