KogoLab Research & Review

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板倉聖宣『仮説実験授業のABC 第4版』

仮説実験授業のABC―楽しい授業への招待

仮説実験授業のABC―楽しい授業への招待

板倉聖宣『仮説実験授業のABC 第4版』(仮説社、1997)を読む。みちたさんの読書と日々の記録(5/4)にも取り上げられているので、参照ください。

これは筋金入りの運動だ。仮説実験授業ということばを何度か聞いてきたけれども、この本を読んで、初めてその「こころざし」というべきものを感じ取ることができた。

明治以後、日本の教育運動は流行現象を繰り返してきました。……流行は普及のためにはもっとも効果的ですが、同時にそれは精神よりも形式を重んじさせることになります。そしてそれは質をゆがめて、はじめのねらいをめちゃくちゃにしてしまうのです。/仮説実験授業を提唱した当初から、私たちはそのような流行化の危険をいつも警戒してきました。仮説実験授業というのはその形式からしてもともと流行化しやすくできているのですが、考え方の方は必ずしもそう簡単に理解できるとはいえません。

プログラム学習の基本的な考え方は、「学習は個別的なものだ、個人個人は別のものなのだから、学習というものは本来個別指導でなくてはならない。……しかし、私どもは「科学的認識は社会的なものだ」というふうにとらえます。ですから、われわれが知識を増すというのは必ずしも個人的なものでない、他人との関係において知識というものはふえたり育ったりするものだと考えているわけです。

選択肢法という形式は、決して先生が楽をして簡単に点数をつけられるようにするためにのみ発明されたんじゃないんです。あれは、教育の民主化のもとに作られたものだ、というのが基本的な性格です。つまり、教育が教師や一採点官のごきげんとりじゃなくなるわけです。

仮説実験授業の内容と方法は、「授業書」という形で提出され、試行されたのち、出版されていく。それは「博士論文よりも難しい」という。そうだろう。誰がやってもそこそこうまくいくような授業書を作ることは難しい。そしてこれは教育工学の仕事のひとつでもある。その意味で、仮説実験授業の作り方(その実施内容ではなく、作り方)は非常に工学的だ。そして、そのこころざしはあくまでも良い授業、楽しい授業ということに向いている。

授業の成功失敗の基本的条件は、/クラスの過半数の子どもがこの授業をおもしろい、たのしいということ――すくなくとも「つまんない」「いやだ」という子供が例外的にしかいないこと/それから、子どもたちの圧倒的多数が、この授業がわかるということ/それから、先生が、またこれをやってみたいと思うほどのたのしさ、おもしろさがあるということ

私には、特に「第3話 評価論――なぜ、何を教育するのかの原理論」が読んでいて、おもしろかったし、共感する部分が多かった。

「知識ばかり評価すると知識中心の子どもができてしまう。だから態度を評価してやりたい」という気持ちをもたれる先生がたくさんいますね。そういう先生方の気持ちは、私にもわかるんです。わかるからこそ、私はやめてほしいと思うんです。/知識ならば点を付けてもかまわない。それは人格に点をつけることではないからです。しかし「心根がやさしい、やさしくない」などと点をつけてもいいものか。「態度がいい、悪い」で点をつけてもいいものかどうか。……評価は「ある意味でくだらない」ということを含んだ上でだいじなんだととらえてほしい、と思うんです。

私が受け持っている心理学の授業でも、かなり実験を取り入れている。いくつか授業書を取り寄せて、その「香り」だけでも取り入れたいなと思っている。こんなことを言うと、仮説実験授業のこころざしに反するのかもしれないけれど、私は授業に関しては徹底的に無節操な折衷主義なのだ。